置いておいて

オタクの雑記です

とあるスピーチの日本語訳を読んだ感想・思考整理メモ

最近「これは水です」という、大学の卒業スピーチの日本語訳がTwitterでバズっていました。読みました。
このスピーチでは、今の僕が想像する「善い生き方の理想形」について述べているように感じられ、僕なりの解釈をまとめる必要があると思いました。どうでも良いこともまとめて、この文章をほぼ整理せずに出力しています。「この時の俺はこんなことを瞬発的に考える人間だったんだな」というのが後で顧みられると良いなと思います。でも、過去の自分キモいなと思いながら生きてるので、これを読み返したらやはりキモいと感じる気がします。ただ、そのキモさからまた自分を変容させるきっかけを得ることができる気もしています。
「これは水です」を読んだ時、僕は色んなことを感じました。その日のうちに3回読み、反芻しました。
たとえ僕の解釈が浅慮だったり稚拙だったりしても、それはそれで良いです。僕が訳文から感じた「良さ」をひとまず頭から出してみて、まとまりのない思考の断片をそれらしく組み立てて成形してやることが大事だと思っています。そうすることでひとまず僕なりの解釈で「これは水です」から感じた「良い考え方」を自分に取り入れて、僕の生活を(少しでも)良くすることができそうな気がしているからです。

なお、全然関係ありませんが先日カクヨムで読んだモキュメンタリーホラーが怖すぎて寝付けず、これを編集している本日は4:30〜8:00しか寝ていません。頭がふわふわしている時に頭を使うべきではないというのは自明な気もしますが、なるべく鮮度良くまとめておきたいという思いもあり今ポチポチやっています。


スピーチ冒頭に出てくる若い魚にとっての「水」は言い得て妙、的確な表現だなと思いました。他にこのスピーチで伝えたいことを上手くまとめるための前置きはないのではないかとすら思ってしまいます。若い魚は水の中を泳いでいることを認知していません。水の中にいるのがデフォルトなので。このスピーチでは、「水」をメタ的な視点で認知し続けることが、「自由」に生きることに繋がると話しています。多分。

このスピーチで用いられる「車でスーパーに寄る話」には身に覚えがあって、僕は僕の行く手を阻むかのようにゆっくり僕の前を歩く人が苦手で、たまにイライラしてしまいます。そのイライラには、僕の前を歩くの人の事情など一切関係ありません。イライラしている僕の認知している範囲は、僕が見聞きしているものだけだからです。そしてその認知の範囲はデフォルトでそのように設定されていることが、スピーチで語られています。スピーチで表現されている「自由」とは、デフォルトで設定されている認知の範囲から脱却し、他者の事情や境遇や価値観を慮ることによって得られるものであるとされています。僕の前を歩く人は脚の病気や怪我をしているかもしれないし、もしかすると昨日ペットが亡くなってしまって足取りが重いのかもしれません。そう考えれば「そりゃしょうがないわ」と、僕はイライラから解放されます。自由です。このスピーチでは道徳的に他者を労われとかそういった話をしているわけではなく、認知を広げることによって、今までの狭い認知の中で発生していた自分自身を抑圧するような感情から自分を解放して、自由に生きようと述べていると感じました。

僕は今まで、なるべく自分の感情に自覚的に生活してきたつもりです。
嫌な気持ちになるのは、自分で自分を嫌な気持ちに向かわせていることが大半で、前をゆっくり歩く人にイライラするというのはまさにそういうことです。

僕は自分が水の中にいるのを忘れてしまうことが多々あります。デフォルト設定らしいですから仕方ないかもしれませんね。
もしこれを読んでいる人がいたら、僕らはお互いに水の中にいることを、時々でも、思い出しましょう。多分その方が楽しいだろうし。